第5章
神崎雅志の言葉を聞いた瞬間、神崎家の兄弟たちの目が一斉に光り、瞳の奥に獰い色が宿った。
神崎斗真は手首をくるりと回し、指の関節をぱきぱきと鳴らす。
五男の神崎翼は建設関係の仕事をしていて、日に焼けた肌に短気が滲む男だ。鼻で笑うと――どこからともなく鉄の棒を一本、引き抜いた。
温厚そうな神崎颯介は、声だけはどこまでも穏やかだった。
「法治国家で、堂々と殴るのはまずいでしょう」
そう言いながら、通りかかった看護師を呼び止める。
「すみません。袋、ありますか」
看護師は一瞬きょとんとして、それから慌てて頷いた。
「あ、あります……薬品倉庫に袋が……でも、段ボールのほうが――」
荷物を入れるのだと思ったのだろう。段ボールのほうが親切だとでも言いたげだ。
神崎颯介はにこりと笑う。
「ありがとうございます。袋で大丈夫です」
殴るなら、袋を被せて殴るのが基本だ。
神崎家の兄弟たち「……」
VIP病室フロアの廊下の突き当たり。扉一枚隔てた向こうから、風がごうごうと吹きつけてくる。
水野源は凍え死にそうだった。心の中の愚痴が止まらない。
一晩待った。夜が明けても、神崎家の連中は顔ひとつ見せない。
水野篤志は夜中過ぎに耐えきれず帰ったくせに、去り際だけは偉そうに言ったのだ。
――ここで待て。誠意を見せろ。
寒の戻りの夜は、真冬より冷える。身体は芯まで冷え切り、疲れと空腹と眠気がいっぺんに襲ってくる。
熱い風呂に入りたい。布団に潜って、何も考えず眠りたい。
そう思った瞬間、余計に耐えられなくなった。
さらに一時間。水野源はついに決めた。
――いったん戻る。
地下駐車場。
水野源は電話をしながら歩き出す。
「いいか、見張ってろ。神崎社長たちが出てきたら、すぐ――」
「俺が」と言い切る前に、視界が真っ暗になった。
袋を被せられたのだ。
次の瞬間、拳が雨みたいに降ってくる。
「な、何だ!? お前ら、何者だ!」
神崎家八兄弟が水野源を踏みつけ、容赦なく殴った。
本来なら、こんなことに自分たちが手を下す必要などない。別のやり方はいくらでもある。だが――
紬の身体に残った傷。
そして、あの子が怯えた声で尋ねた二言。
『帰ったら、ごはんある?』
『……叩く?』
それだけで、怒りの蓋が吹き飛んだ。
水野源は悲鳴を上げるだけで、反撃もできない。ひたすら殴られる。
「やめろ……!」
「俺が誰か分かってんのか! 水野グループの社長だぞ! 俺に――信じないぞ……!」
神崎雅志が冷笑し、ネクタイを緩めて片手を上げる。合図ひとつで、兄弟たちの拳が止まった。
水野源は、相手が怯んだと勘違いした。
だが次の瞬間。
鉄の棒が、水野源の脛に叩き込まれた。
「ぎゃああああっ!!」
地下駐車場に、凄まじい悲鳴が響き渡った。
水野源は殴られて病院送りになった――というより、病院の外へ出る前に担架で戻された。
全身が痛い。しかも、誰にやられたのか分からない。
調べても調べても痕跡がない。
相手は一切の尻尾を残さず、痛みだけ置いていった。怒りで内臓が裂けそうで、血を吐きそうだった。
水野心愛がベッド脇で泣きじゃくる。
「源兄さん……大丈夫……?」
もし水野源が起き上がれたなら、水野心愛の瞳の奥に浮かぶ薄い冷たさに気づいただろう。
水野心愛はパジャマ姿のまま、献身的な妻を演じていた。けれど内心は不安と、歪んだ焦りでいっぱいだった。
紬という死に損ないの雑種が、神崎家の唯一のお嬢様になった――?
昨日、水野麻子から聞いた瞬間、心臓がひゅっと縮んだ。
流産は紬のせいではない。自分で落ちたのだ。
水野家は経済危機。水野源は破産寸前で、闇金にまで手を出している。
水野心愛は、腹の子で沈む船に縛られたくなかった。
若くて綺麗な自分なら、もっと金持ちを捕まえられる。子どもがいれば再婚が難しくなる。
だから、子どもを消す必要があった。しかも自分に非がない形で。
そこで用意したのが、“紬が突き落とした”という筋書きだった。
紬は母親がいない雑草。水野家は元から紬を大事にしない。水野源は酔うと「紬は俺の恥だ、死ねばいい」とまで言っていた。
だから安全だと思った。
――なのに。
紬は神崎家の子だった。
四大名家のひとつ、神崎家。
水野心愛は震えた。バレたら終わる。
どうする、どうする……!
紬に、自分の悪口を言わせない方法を考えなければならない――。
VIP病室。
紬が再び目を開けると、部屋は静かで、誰もいなかった。
置いていかれたのだと思い、視線を落とす。小さな顔に寂しさが滲む。
そのとき、扉がそっと軋み、神崎斗真が入ってきた。
紬の瞳に、かすかな光が戻る。
神崎吉弥が「人が多いと空気が悪い」と言って、皆を外で休ませていたのだ。
神崎斗真が優しく言う。
「紬、少し楽になったか? 斗真おじさんが朝ごはんを用意した。食べるか」
紬はこくりと頷いた。
すぐに朝食が運ばれ、物音で兄たちも集まってくる。
神崎吉弥が恐る恐る聞く。
「紬、何が好きだ? 海老焼売、茶碗蒸し、豚の角煮、カスタードまん……」
短気な神崎翼が割り込む。
「ラーメン! ラーメンがうまい!」
神崎吉弥は杖で翼の脛を叩いた。
「起きたばかりの子に何を食わせる気だ!」
そして茶碗蒸しを差し出す。
「紬、まずは茶碗蒸しにしよう。柔らかくて食べやすい」
神崎颯介はお粥を持ち、微笑む。
「お粥でもいいよ」
紬は唇を結び、皆を見回した。
なぜか鼻の奥がつんとして、痒い。泣きそうになる。
――これが、家族……?
紬は鼻をすすり、恐る恐る呼んだ。
「……おじいちゃん……茶碗蒸し、たべたい……」
神崎吉弥の目が一気に赤くなる。何度も頷いた。
「ああ! ああ、いいとも。茶碗蒸しだ、茶碗蒸し!」
神崎家の者たちは、神崎実里の幼い頃を重ねてしまう。
無邪気で、兄たちに甘えて、時には拗ねたあの子。
なのに目の前の紬は、「おじいちゃん」と呼ぶだけで恐る恐るだ。間違えたら嫌われると思っているみたいに。
三歳半で、人の顔色を見て生きることを覚えてしまった。
胸が裂ける。
紬が食べ、眠りにつくと、神崎家の者たちはそっと部屋を出た。
紬が目を閉じて、まだ少ししか経っていない。
耳元で、またあの声が響いた。
【つむき、つむき……!】
紬は目を開け、部屋を見回す。
誰もいない。
夢……?
そう思って目を閉じた瞬間、また声がする。
【紬、紬、つむき!】
紬はシーツを握り締め、緊張して声のする方を見た――。
